映画「モンスターハンター」がつまらなかった人のために【ネタバレあり】

・サイドストーリーという視点を導入すると、面白くなる

3/26、モンハンの映画が公開されたので午前の回の字幕版を見てきた。

 

ネタバレがある、というかネタバレばかりになる記事なので注意してください。でも、映画「モンスターハンター」の面白さが見えてくるはずの記事なので、まだ見てないけどちょっとネタバレしてもいい、かつモンハンの設定についてあまりよく知らないけど見にいくという人は予め見ておいた方がストーリーの意味がわかって映画を楽しめるかもしれない。

 

正直、エンドロールが流れ始めた時の筆者の感想としては「???」というものだった。それも悪い意味で。

 

アルテミスと調査班リーダーと大団長でゴアマガラに突っ込んでいくシーンで不穏な雰囲気を感じ取ったが、案の定「俺たちの戦いはこれからだ!」と言わんばかりにスタッフロールが流れ出した。この時点で劇場から出て行った人も多かった。ネルスキュラディアブロスリオレウスとの戦いでハッピーエンドでよかったものの、まさかのゴアマガラの登場、そして謎の打ち切りマンガオチ。そりゃあ酷評したい気持ちもわかる。まあ、この点に関しては確かに続きをちゃんと見せてもらわないと困る(まあ、興行収入的にきついと思われるが)。正直、この記事を書いているのも、続きを見るためにはこの映画が面白いものだという認知が広がって続編の制作が決まらなければいけないからでもある(ネタバレしておいてそりゃないぜ、と思うかもしれないが)。

 

ただ、スタッフロールが少し流れた後、もうワンシーン入る。そこでは、天廊でゴアマガラとの戦闘をする3人を、天廊の最上部から見下ろす怪しいフードの人物が一瞬だけ映るのだ。そしてようやくエンドロール。

 

「続編作る気満々だけど、その見込みは本当にあるのか?」と思った。だが、エンドロールの間、冷静にこの映画のストーリーを辿ってみるとあることに気づいた。そして、みるみるうちにこの映画で表現されているストーリーの全貌が見えてきた。そして思った。

 

この映画、めっちゃ面白いし、モンハンの設定をかなり調べて作られているぞ

 

最初は、ゲーム版のモンハンにオリジナルの要素付け加えすぎて別物になってる、とか、バイオハザード戦国自衛隊の魔合体じゃねえかと思ったが、この映画は紛れもなく「モンスターハンター」の再現、どころか、本編の世界観を忠実に描いた新しい物語になっているのだ。

 

ただ、モンスターハンターのライトユーザー、というか、モンハンの裏設定について無関心なプレイヤーからしたら全く意味不明なトンチキ映画に見えてしまうというストーリーの構造自体に問題がないとは言えない。あと、そもそも裏設定は公式ストーリーと同等に扱っていいのか曖昧なのものなので、裏設定との結びつきを必須とするストーリー作りをしていることにちょっと批判したくなる。でもまあ、モンスターハンターワールドではストーリー内でちょっと裏設定に触れたりしているので、もしかしたら今後モンハンは裏設定を前面に押し出してくる方針なのかもしれない。今回の映画も踏まえてね。

 

さっきから「裏設定裏設定」と言いまくっていて、肝心の内容について全く話していないので、そろそろ本題に入ろうかと思う。とはいえ、その前に何を話すかについてざっくり提示しておこう。

この記事で主に触れることは、

・なぜ新大陸調査団なのか

・「Our world」と「New world」を繋ぐ天廊の伏線はすでゲーム中に示されていたこと

・ラストの謎の人物は誰か

・個人的な妄想

この四つである。そして要旨は

「モンハンのバックボーンとなっているストーリーがわかると、この映画はめちゃくちゃ面白い」

ということである。適宜モンハンの過去作で示されている今回の映画への伏線と裏設定を継ぎ足しながら説明していく。

 

・なぜ新大陸調査団なのか

まず、なんでこいつらが主要キャラに選ばれたんだろうと思う人もいるかもしれない。発売に合わせてライズにすりゃあいいのに、とか、無印モンハンがモンハンの原型だろうに、とかね。

だが作品の時系列やゲームのストーリーを整理すると、本作で彼らが「いつ」「どこで」「何を」「なぜ」しているかがわかる。

 

①この作品内の時間はモンスターハンターワールドアイスボーンクリア後の世界である。

まず、作品冒頭で示されている通り、受付嬢と五期団の推薦組の面々が揃っている(ゲームの主人公はいないが)。つまり、少なくともモンスターハンターワールドのゲーム開始時よりも後であることがわかる。

そして、モンスターハンターワールドアイスボーンの配信クエスト「Our world」の受注条件はMR1以上である。つまり、大団長が英語を学習するきっかけとなった出来事は少なくともゼノジーヴァ討伐後の新大陸である。

大団長がどれだけ熱心に勉強したとしても、英語をマスターするにはそれなりの年月がかかるだろうから、あとで説明する理由も合わせてこの作品に登場するのはアイスボーンクリア後の新大陸調査団だと推定できる。

 

②「New world」での舞台は現大陸である。

前提知識として、モンスターハンターワールドは新大陸という未開の大陸が舞台となっている。そして、それ以前のモンスターハンターシリーズは現大陸という古代文明が残る大陸が舞台となっている。新大陸調査団は現大陸のハンターズギルドから派遣されて新大陸のモンスターや環境を調査しているという設定だ。しかし、映画「モンスターハンター」では、この新大陸調査団の面々が現大陸で行動していると読み取れる。その理由はいくつかある。

・冒頭で調査団が乗っている船は、新大陸で登場したものではなく現大陸でハンターズギルドが使用しているものに酷似していること。

・武器にはハンターズギルドの刻印がされていること、また、ボーン武器で統一されているのも新大陸の素材や環境物を現大陸に持ち込んではいけないことからきていると説明できること。受付嬢はすでにルール違反をしているが。

・砂漠にダレンモーランの死骸があること。古龍渡りで海を渡れそうにないダレンモーラン(水耐性はそこそこ)が仮に来ていたとしても、新大陸では古龍の死骸は瘴気の谷に集まるはず。

・作中の砂漠が大蟻塚の荒地だとしたら森林は古代樹の森になるが、アステラは大蟻塚と古代樹の森の中間点に位置するので、作中で砂漠→森林→天廊という順番で遠征をしていることと矛盾する(ビジュアルのモデルは大蟻塚らしいが)。新大陸ならアステラから古代樹の森、天廊と向かうはずだし、そもそも新大陸には大型建造物は確認されていないこと(新大陸の奥地に未発見の遺跡があると想定しても龍結晶の地を越えないといけないし、導きの地としても、植生がすぐに変わるはずである)。

ネルスキュラは新大陸では確認されていないこと(いないとは言えないが)。

また、調査団が現大陸にいるとしたら、やはりアイスボーンクリア後である可能性は高い。アイスボーンのミラボレアス討伐作戦で調査団は初めて現大陸での任務につくからだ(陽気な推薦組は別、あくまで調査団として)。そしてその後に、討伐作戦の功績がハンターズギルドから大いに認められるのである。

 

③新大陸調査団はギルドからの依頼で現大陸調査をしていた。

ここから推察できることは、「ミラボレアス討伐の功績を買われて、ハンターズギルドから古代遺跡の調査も任された」ということだろう。

あくまで表面上は、という話である。ハンターズギルド上層部にとってアルバトリオンの一件で目の上のタンコブだった新大陸調査団をミラボレアス討伐作戦の最前線に放り込んでも消せなかったので今度は危険な遺跡調査を任せたとも考えられるが……考えすぎかもしれない。

これなら映画の描写にも矛盾がなくなる。新大陸調査団が現大陸にいるのもそうだが、総司令やソードマスター、五期団推薦組(ワールドの主人公)の姿が見えないのも、新大陸の留守を任されているからであろう。

これもまたハンターズギルド上層部の話と絡めるとなぜこのメンバーか予想できる。新大陸調査団の次期総司令は調査班リーダーだろうし、古龍の秘密に対して好奇心が強すぎる受付嬢、新大陸の環境に詳しい大団長など、どれも新大陸調査団の主力メンバーが編成されている。特に受付嬢は消さなければならない人物と言える。対して、年齢的に限界の近い総司令や技術的にというかまあいろいろ限界なソードマスター、そして数多くの脅威を討ち払ってしまう主人公を新大陸に残しておくのはギルドにとって都合が良いはずだ。

 

・「Our world」と「New world」を繋ぐ天廊の伏線はすでゲーム中に示されていたこと

さて、本作の重要な目玉となるのが「Our world」と「New world」を繋ぐ『天廊』という塔、いや塔というより装置である。

これがあるからアルテミスをはじめとしたアメリカ陸軍がモンスターハンターの世界へと転移してしまう。正直、この天廊の明確な機能が明らかになったのは本作が初めてで、だからこそこの映画「モンスターハンター」はテンションが上がるのだ。「あの天廊とそれにまつわる謎の言い伝えが、まさかこういう形で回収されるとは!」と。

天廊とは、古代人の建造した建築物である……が、基本的に古代人の作った建造物は使用用途が決まっていたりする(単なるやぐらや居住地というわけではなさそうだ)。モンスターハンターのゲーム内では海底遺跡やシュレイド城などがそうで、あれは対古龍迎撃要塞となっている。

今さらっと古代人と述べたが、この古代人というワードが結構重要なのである。古代人は、単にモンハン世界の住人の先祖というわけではない。モンハンの世界観では、現在のモンハン世界の住人とは明確に区別されるべき人間としての意味合いを込めた上で古代人と呼ぶことが通例だ。何せこの古代人、ヤベー奴らだからである。

モンハンの世界を見て不思議に思うことはないだろうか。原始的な狩猟採集を生業とする者がいたり、社会やインフラの水準は明らかに現代人と比べて低レベルであったりするのに、砂漠を走る船や大規模な木造飛行船など、現代でも再現が難しい技術が存在する。また、武器に属性を付与したり、属性のエネルギーを制御するスラッシュアックスチャージアックスなど、現代では到底考えられない技術も存在する。モンスターハンターは「リアルな世界観を目指したゲーム(一ノ瀬ディレクター談)」にもかかわらずだ。実はその鍵を握るのが、古代人なのである。

古代人は現在では到底考え付かないレベルで技術力が優れていたらしい。もう激ヤバで神の域だったらしい。少なくとも、現在のモンハン世界の住人からしたら、理解不能なほどに。そして彼らは強大な技術力を持て余し、ある禁忌を犯すことになる。

それは、人造ドラゴンを作成すること。

古代人は過去にイコールドラゴンウェポンと呼ばれる生物兵器の開発を始めた。これは筆者の推測だが、最初はおそらくドラゴンに対する自衛手段を目的としたものだったと思われる。

しかし、製造方法がだめだった。一体のイコールドラゴンウェポンを作るにはドラゴンの屍を30体集める必要があった。そして始まるドラゴン乱獲祭り。これに憤慨したドラゴンと人間との間で戦争が勃発し、ドラゴン陣営の最終兵器にあたるミラボレアスが古代人最大の王国であるシュレイド王国を破壊。ただ人類の抵抗も強力で両陣営共に深傷を負い、当時のドラゴンである古龍は姿を消し、古代人の文明は潰えてしまった。無印モンハンだと、主人公ハンターがモンスターを討伐しまくったせいでミラボレアスが復活する。

というストーリーがある。つまり、現代のモンハン世界は古代人のロストテクノロジーをなんとか再利用してモンスターから自衛する弱き人類なのである。そしてまた、古代人に対してほぼ無知なのが現在のモンハン住人なのである(だからこそ、現代の住人である調査団は天廊の調査をしている)。

しかし、古代文明の痕跡としての古代遺跡は前述した通りモンハンシリーズでは数多く存在する。そして、今作に登場した天廊もその一つだ。

さて、その古代人の作った天廊だが、「モンスターハンター フロンティアG6 プレビューサイト|天廊 謎に包まれた塔」には、以下の説明がなされている。

 

「我々は、取り返しのつかないことをしてしまった。許せ…許してくれ…」
そう呟くと、古代人達は、次々と姿を消した。 大型探査船で各地の調査を行っていたギルド職員から、これまで発見されていた「古塔」とは異なる、巨大な建造物を発見したとの報告があった。早速ギルド職員は中の調査をしようと試みたが、生息している凶暴なモンスターと、あちこちに仕掛けられた罠により、それはかなわなかった。
 
━━ここには、何かある。
 
ギルドはこの「塔」よりも巨大な建造物の調査を最重要調査事項として定め、すぐさま調査隊が結成された。数回の調査で明らかになったのは、この巨大建造物は古塔に比べ、さらに高度な文明で建造されたものであること
(略)
この建造物がどういう意図で建造されたかまでは、未だ不明である。
 また、かなり長い年月人の手が入らない状況であったらしく、多くのモンスターがこの建造物内に棲みついていたそのため、この巨大建造物の調査には、ハンターの協力が必要であるとの結論が出るまでに、長い時間は要さなかった。 

 

この天廊のポイントをまとめると

・古代人たちは消息不明である(モンハン世界にはいない?)

・他の遺跡とは技術も目的も異なる高度な建造物であった

・モンスターが棲みついている

ということになる。しかし、この謎についてはゲーム内で明かされることなく、モンスターハンターフロンティアはサービスを終了した。つまり、この天廊の正体はモンスターハンターファンにとって未解決の謎として残っていたのである。

そこで、今回の映画「モンスターハンター」である。

古代人たちが消息不明になった原因、そして他の遺跡とは桁違いの技術が込められているという設定、これの一つの答えとして、「異世界とのゲートである天廊」が登場した。

これは案外盲点というか、ぶっ飛んではいるが、確かに納得できる新情報である。古代人の遺跡は数多く見つかっているが、古代人の遺体は発見されていない。文字通り姿を消したのである。しかし、天廊によって生き残った古代人が別の世界へ逃げたとしたら、その謎にも解が与えられたことになる。もちろん天廊の不可解な設定にもだ。

また、明らかに他の古代遺跡と区別して天廊を「高度な技術で作られている」と説明している不自然さも、確かに異世界転送装置ならばうなずける。

また作品内で「番人」と呼ばれていたリオレウスも、このモンスターハンターフロンティアの設定である「番人モンスター」を意識していることは明らかだ。番人モンスターは強化個体のものもいるので、作中リオレウスの強力さはそのせいだろう(デカさとかも含めて)。映画でリオレウスを内部破壊したり、現代兵器でダメージを与えるのもモンスターハンターフロンティアの天廊ではギミック使用でモンスターを倒すという仕様をオマージュしているのかもしれない。これは妄想だけれど。

とにかく、映画で描かれたこの天廊という目玉的な要素は、モンスターハンターファンの長年の謎に一つの解を与えた重要な要素と言えよう。

ここまで説明したが、共通点をあげただけで推測の域を出ないだろう、と思う人がいるかもしれない。だからダメ押ししておこう。実は、インタビューで監督がそう言及しているのだ。以下がその記事である。

 

jp.ign.com

 

冒頭で述べたことを先に答え合わせした形になるが、インタビュー内で言及されている通り、この映画はモンスターハンターの裏設定を基調にした、今までほのめかしに留められていたモンスターハンターの重厚なストーリーを最大限に表現した作品なのである(ただし、道程がカットされているのかはわからないが、作中では天廊が火山に囲まれた地形であるということについての描写はされていなかった)。

 

・ラストの人物は誰か

映画の最後に登場したフードを被った人影。あからさまな続編への布石ではあるものの、ストーリーのオチを丸投げしたわけではない。モンハンのストーリーを知る人なら、心当たりがあるはずである。

まず、監督のポール・W・S・アンダーソン氏が先ほど引用したインタビュー記事で言及していた部分を取り上げる。

この古代文明が深い部分に存在していたというアイディアは、ゲームをプレイしていると時にはこの文明の遺跡に遭遇し、その文明に破壊をもたらした先進的な文明にも遭遇するということを示している。そしてこれら一連の遺跡の1つが、映画の最後のシーンにおける大きな背景になるんだ

 翻訳の難しさのせいか、監督がやけに遠回しな表現を選んでいるのかわからないが、 マジで何を言っているかよくわからない。

ので、原文を拾ってきた(12 Cool Monster Hunter Movie Details Fans Will Care About - IGN

“The idea that there was this Ancient Civilization that existed in the deep parts, and which, when you’re playing the games, you sometimes kind of stumble upon the ruins of this civilization, an advanced civilization that brought about its own destruction. And one of those sets of ruins provides… a big backdrop for the final act of the film.”

まあわけわからない。筆者の英検3級の英語力で日本語としてわかりやすくなるように訳すとこうなる(本当に申し訳程度のものなので、あまり参考にしないでもらえると助かるが、理解を少しでも助けるために書き加えた)。

 

「物語の根底に存在する古代文明があるという発想、あるいは、プレイ中に遭遇する遺跡による『古代文明を滅したある先進的文明がある』という発想。

そして、これら一連の遺跡群(の設定・体験?)がラストシーンの背景をもたらしてくれる」

 

(日本語記事とだいぶ変わっちゃったけど、「示してくれる」って術語が原文にはないような……。)英語能力が低いので誰か妥当な翻訳を教えて欲しいが、とりあえず先に進もう。

 

まあとにかく、ラストシーン、つまり謎の人物には古代文明の設定と「古代文明を滅したもの」の設定が絡んでくる、みたいなことは確かだろう。

古代文明を滅したもの……これはモンスターハンターワールドアイスボーンをクリアした人ならわかる。そいつの名前はミラボレアスだ。

ラストシーンにミラボレアスに関わる要素があっただろうか。アルテミスも調査班リーダーも大団長もミラボレアスと関係がないし、強いて言うならゴアマガラが古龍の幼体だったり、大量虐殺ドラゴンとしての設定を持っていたり、ややミラボレアスと重なる程度の設定を持っているだけである。

だが、最後に現れたフードの人物はどうだろう。

ミラボレアスが人間と関係あるわけないだろ!! いい加減にしろ!

という人もいるかもしれないが、実はモンスターハンターにはミラボレアスと関わりの深い赤衣の男という人物が存在する。

この男はアルバトリオンミラボレアスの一種であるミララースのクエスト依頼文を書いている人物である。世界の崩壊を招きかねない禁忌モンスターのクエストをギルドの関係者ではないものがクエストとして依頼するということもあって、彼はミラボレアスをはじめとした禁忌モンスターとの接点をもっていると考えられる。加えて、ミラボレアスにまつわる伝説を後世に残したと言われる赤衣を纏った詩人という人物がモンスターハンターの設定資料に載っている。同一人物であるかは定かではないが同じ赤衣という衣装であることから、やはりミラボレアスとの関わりが深い人物とも言える。

シリーズ全編を通してこの赤衣の男はクエスト依頼文でしか登場しないため、ミラボレアスの設定の背景と同様に裏設定という形でファンから考察されている。

監督によると裏設定を基に映画「モンスターハンター」のストーリーを構想していることから、古代文明の滅亡と関わる人物である赤衣の男はこの物語に関わってくる可能性が高い。それゆえに、ラストの人物は赤衣の男ではないか、と推測できる。

ちなみに、古代文明を抜きにすれば、ラストに出てくるゴアマガラのクエスト依頼文を書いた黒布を纏った狩人というキャラクターである可能性が高い。他にも黒衣の預言者とかいう赤衣の男の二番煎じ赤衣の男を彷彿とさせるキャラクターもいる。

正直候補が多くて誰かわからないけれど、禁忌モンスター絡みというか、黒幕っぽいキャラクターの中で一番ポピュラーなのは赤衣の男なので、記事では赤衣の男を最有力候補として位置付けた。ただ、筆者のおぼろげな記憶では黒っぽいくすんだ色の服を着ていた気がするから、赤くないんだよなあ

 

最後に

とりあえず、ストーリー考察勢たちのまとめを少々かじった程度の知識で書けるだけ書いてみた。

監督は裏設定を有効活用したいそうだが、正直裏設定の諸々を一般視聴者に求めるのは酷なものだろうと思わなくもない。ただ、一応この映画のストーリーを批判するのならばモンハンの裏設定という視点を考慮してからの方がいいかもしれない。アベンジャーズエンドゲームしかり、シンエヴァンゲリオンしかり、一本の映画を見るまでの下準備があってこそ真の感動をもたらす映画というものがある。まあ、映画「モンスターハンター」の場合、映像化はおろかゲームのファンブックという形でしか現れてないものを下敷きにするのはさすがにやっぱやりすぎだと思うが。

いちファンとしての感想としては、まあ冷静に考えると設定云々はわざわざ裏設定もってきたことに対して全肯定はできないなと思う。ただその点を除けば、モンスターの動きや生態に関してはかなり忠実に描いているし、アクションもゲームの挙動を映画的な表現へと拡大してくれていて、とても満足度のいく作品だったと思う。ラストが打ち切り漫画っぽかったけど。

総評としては、やっぱり面白い映画だったと思う。特に裏設定好きのファンにとっては裏設定を表舞台に出してくれたのは良いサプライズだったと思うし、モンスターハンターの世界をうまく映像化してくれていると思う。まだ見てない人は見て欲しいし、一回見た人はもう一度見るまではいかなくとも、単にノットフォーミーな映画だっただけという認識になってくれたらと思う。

裏設定ストーリーの参考として「モンスターハンター大辞典wiki」を大いに利用したので、リンクを貼っておく。もっと裏設定について知りたいという人は調べてみよう。

wikiwiki.jp

 

おまけ

筆者の考察とは方向性が違うけれど(というか、記事をほとんど書き終えた後に見つけたけど)、この記事なんかよりも広範で端的な解説記事がある(ゴアマガラ登場の理由についても書いてあるし、大団長がアルテミスを捕縛した動機もなんとなくほのめかされている)。

www.ign.com

 

漢字の検定を受けた話

このブログ、二週間前には三ヶ月前のことを書いていて、一週間前には二か月前のことを書いているので、まあ例にもよって今回は一ヶ月前のことを話します。

 

この勘定でいくと三日後に今月のことを話して、その二日後には来月のことを話しているはずです。まってくれ、更新頻度が著しく上がっていくではないか。

 

累乗というのは恐ろしいもんだ。一休さんも、「米をひと粒ください、明日は倍のふた粒、明後日はその倍をという感じで米をください」と言って、一ヶ月も経たないうちに米屋を破壊したらしい。(計算が間違ってなければ、30日目は大体1トンくらいもらえるが、もちろんそれまで貰った米の分もあると考えると、その量は計り知れない。お米だけに)

そう考えると、「冷たい水をください。できれば愛してください」と言ったポルノグラフィティの方がよっぽどお坊さんっぽいよね。

 

さて、神無月の話です。あ、いや、モノマネする方ではなく、1010月の話です。あれ、というか10月って二進数でも10月感が薄れないね、すごいや。

 

じゃなくて、とりあえず10月の20日にですね、漢字検定を受けてきました。

 

受けたのは準一級でした。一級は参考書自体が少なくて誰がどうやって受けるのかすらわからなかったので、準一級にしました。

 

準一級がどれほどの難易度なのかを説明するために、実際の問題を紹介します

 

(1)誰何した(すいか)

(2)柴扉に暮らす(さいひ)

(3)クツベラを取る(靴篦)

(4)シランの人だ(芝蘭)

(5)情緒纏綿(じょうしょてんめん)

(6)キンキジャクヤク(欣喜雀躍)

(7)擬える(なぞらえる)

(8)縦にする(ほしいまま)

(9)ナンナンとする(垂んとする)

 

こんな感じです。使うかよ、って思うかもしれませんが、まあ日常生活どころか一生使わないですねたぶん。それもそのはず、漢検準一級は常用漢字外の熟語や読みが試験範囲になっているのです。

でも、知らない漢字を知ってるって、なんかカッコイイ。そうは思いません?  思いませんか…ははあ、そうですか。

もちろん相手の知らない言葉を勝手に使うと、それはもう外国語を話しているのとほとんど変わらないからコミュニケーションで活かそうなどとは考えてないんだけど、確かに言えるのは、語彙力がつくということ。

 

いやいや、語彙力って使う場所がなければ無価値じゃん。

 

そう思った方も少なくはないだろう。だが、一概にそうは言えないのである。

まず、語彙力は誰かに使えなければ意味がないという考え方について整理しよう。

 

第一に、語彙というものの一般的なイメージとして、頭の中の辞書からひっぱりだして声やら紙やらに写しとるものというのがあると思う。

 

実際、言語学にはレキシコンと言われる脳内の辞書を元に人間は語彙選択をしているというモデルもある(最近だとこのモデルは微修正され厳密には紙の辞書を引くイメージにはなってないけど、基本はそんな感じ)。

 

とにかく、一般に、何かものを言う場合は自分の持ってる語彙の中から自分の伝えたいことに合ったものを選びとって、それを伝えているという考え方がある。

 

この考え方の場合、自分のもつ語彙が多ければ多いほど、自分の伝えたいことになるべく近い形で表現をするための"手札"も多くなる。一見すると、語彙力と表現の厳密性に比例関係があるように思えてくる。

 

しかしこれはすべての場合に当てはまらない。

 

なぜなら、厳密な言葉の伝達は自らの発話の厳密性だけでなく、相手の解釈の厳密性も不可欠だからである。

 

例えば、漢検準一級の問題を用いると、こんな表現。

 

「西の空が暮れ泥んでいる」

 

「暮れ泥む」という複合動詞は、空が暮れるでもなく、明けているでもない、極めて微妙な空の様子を表す語彙である。ただ、たしかに「暮れ泥む」という語彙が伝えたい内容に合致していたとしても、このように常用ではない語彙を用いてしまっては、相手に意味は伝わらない。

 

この齟齬を例えて言うならば、iPhone(発信者)からAndroid(受信者)へのテキストチャットを挙げよう。

 

f:id:masamune000:20191119225618j:image

 

iPhoneは使用できる文字の数はAndroidよりも豊富だ。したがって、iPhoneでは多様な顔文字のメッセージを作れる。ところが、iPhoneで作成された顔文字内の文字はAndroid端末には存在しないため、iPhoneのテキストをAndroidで読んだ場合、顔文字は文字化けした意味をなさない記号の羅列になってしまう。(画像の場合だと、特に一番下のもの)

概ねこれと同じことが、会話でも起きてしまう。

 

したがって、語彙力に相関する表現力の増加はある閾値を超えると、受信者側の都合により逓減しはじめるのである。

 

これもすべて表現力というものが、メッセージの発信者側の語彙選択と、受信者側の解釈の両輪で成り立っているからである。

 

それじゃあやはり、語彙は披露する場がなければ意味がないというのも、なんだかもっともな意見に思える。

語彙力を貪欲に増やしていくメリットがないじゃん。そう思うかもしれない。しかし、ここからが本題だ。

 

今まで話してきたことは、語彙力がもつ「表現」(自分が発信して、相手が正確に受信すること)に対する作用についてだった。つまり、他者の存在が不可欠なシチュエーションという、限定された用途においての話だった。

 

しかし、語彙力の作用が自己完結しているようなシチュエーションならば、どうだろうか。すなわち、相手を必要としない語彙力の使い道においては、語彙力増強はいかんなく効果を発揮するのではなかろうか。

 

実はそのような場面が存在する。相手を必要としない語彙力の使い道、それは「思考」である。これを端的に指摘してみせたのが、ある哲学者のこの言葉である。

 

「語りえぬものには、沈黙しなければならない」

 

ウィトゲンシュタインという哲学者が残した言葉だ。

「沈黙しなければならない」とかいう仰々しい文句につられて、「言葉にできないなら黙れ」みたいなニュアンスを感じ取ってしまいそうだが、これはウィトゲンシュタイン特有の文体ゆえの誤解である(正直、翻訳しているとか文脈から切り離されているとかそいう要因も十分ある)。

 

「語りえぬもの」、これは、要するに「言語化されてないもの」というわけである。問題は「沈黙しなければならない」という文句。「沈黙しなければならない」のはむしろ「(意見を)沈黙せざるを得ない」のほうが近い。マサムネ訳では「言葉になってないものについてはなんも考えられない」ということになる。

 

要するに、「言語なしに思考はできない」ということである。なるほど言語を省いて概念を理解しようとしても、そもそも概念化になんらかの言語が伴ってしまう。

 

絵や音楽などに思考は伴わないのか、という指摘もあるだろう。確かに、絵や音楽は直感的に任意の概念を表現したものとして考えることもある。しかし、例えば、言語による思考のように、別々の絵と絵を用いてそれらの絵の概念を綜合した新しい概念を生み出せるかというと、やはりそれはできない。

 

気になる人だけに込み入った話をすると、この主張のざっくりした前提として、「思考は命題の形式で行われる→命題は任意の言語から成る」という考えがある。

 

話を戻すと、思考というフィールドにおいては、語彙力はいかんなくその力を発揮できるのではなかろうか。誰かに合わせる必要もなく、打てば響くように語彙力が抵抗なく作用するのではないか。

 

ウィトゲンシュタインよろしく言語化できる対象についてしか思考できないのであれば、言語化できる対象が多くて困ることはないだろう。

そして、その「言語化」を担うのは紛れもなく「語彙」である。つまり、語彙力と思考力は相関しているのである。

 

知覚した現象を、ひとたび自分の中で言語化できさえすれば、それを自らの思考に取り入れることができる。

しかし、その言語化の過程で語彙力がボトルネックとなってしまうと、たちまち自らの思考の対象が減ってしまう。

それを避けるために、語彙力の増強はしておいて損はないのかな、と思ったから受けました、漢検準一級。

 

 

 

って説明すればかっこいいかなって思ったけど、衒学に終わってしまった。

衒学、準一級用漢字です。

君は空を飛んだことはあるか

今年もあと二ヶ月

 

とだけ下書きに書いていたが、まあ言いたいことは今は11月であるってこと

 

睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、神無月……えっとなんだっけ、師走?

 

僕はなぜか月の異名の中で11月だけ覚えられない。霜月らしい。

 

そんな11月。余談だけれど、年度末(弥生)と年末(師走)だけ「月」という字が付いていない。これは偶然だろうか?

 

偶然ですね、だって旧暦と西暦はずれてますから。

 

ともかく11月、見方を変えると三月になりそうなので、ここでは1011月としましょう。嘘です、というか、今回の記事は11月の話ではないですし。

 

今回話すのはもう何ヶ月前か忘れた9月の話です。

 

ディズニーシーに行ったときの話です。

 

ディズニーシーがあるとすれば、ディズヒガーシーがありそうですが、なぜだか対を成すのはディズニーランドみたいです。

 

さてこのディズニーシーやディズヒガーシーには、ファストパスというチケットがありまして、これがどういうチケットかというと、要するに整理券で、あらかじめファストパスを発行し、記載された指定の時間内に専用ゲートに行くと、通常の待ち時間より早くアトラクションを楽しめるという代物。

 

だが、今年からだっただろうか、そのファストパスの発券がスマホで行えるようになったのである。

発券機から出された券を手渡すというラーメン屋レベルの文明から一気にスマートでハイテクノロジーイノベーションにローンチし、チケットのゲインにハレーションを起こすマターに対するドラスティックなソリューションをASAPで打ち立てたのである

サマる(要約する)とディズニーは意識ちょー高い、神。

 

そもそも、アトラクションのギミックに最先端の映像技術をバンバン詰め込んでいるディズニー様なのだから、そういった技術系のセンスはかなり鋭敏なはずである

 

だからこそスマホファストパスの導入はやや遅いとも言えそうである。だが、ファストパス取得アプリの前身である公式パークガイドアプリがあったので、きっと来場者のうちどのくらいがそのパークガイドアプリをインストールしているかとか、その他僕の想像に及ばない統計的な調査を経て実装に至ったのだと思う

そういう膨大な調査がバックボーンにあったとすれば、かえって着手が早すぎる気もしてきた

 

ディズニーって研究所でも持ってるのかね、それともどっかのシンクタンクに委託してるのだろうか

もちろんアトラクションというハード面での技術力もさることながら、きっとパークのUXのために費やされた社会学や心理学の叡智もそれに並ぶだろうと思う

 

ディズニーを嬉々として駆ける「ディズニーで働きたい!」という少年少女たちは将来旧帝大早慶を経てPh.D.を取得し、ディズニー専属研究員となるのだろうか

 

何の話してたっけ、えっと、話したかったのはアレです、アプリでソアリンのファストパスがギリギリ取れたよって話です

 

んで、ソアリンに乗ったんです

 

もうね

 

やばいと

 

ディズニー好き! 大好き! ってなった

 

話のペースが急転直下したので読者諸君はびっくりしただとろうと思う

これが読むタワーオブテラーってね、はははは

 

まあなんというか、先ほどのテクノロジーの話に戻るのだが、この歳になるとディズニーで見せられる体験は、確かに非日常ではあるのだが、ああこれはプロジェクションマッピングだとか、これは座席を振動させてるだとか、そういった『技術力』に対して感じる非日常なのである。要は、ディズニーで感じる非日常は、普段触れない技術をおめにかかるという意味での非日常となってしまうのだ。

となると、かえってコンテンツ勝負に持ち込んだ古典的な『シンドバットの冒険』とか、そっちの方がグッと来るようになる

毎回ボロ泣きする。アレ見るとなぜか情緒がふにゃふにゃになる。日常のしがらみから開放されたような、洗われたような気分になる。たぶんあのアトラクションが消えたら僕は静かに血涙を流しながらコンパス・オブ・ユアハートを唄って入水自殺を決めてしまう自信がある。それくらい好き。

 

『人生は冒険だ、地図はないけれど

 

宝物さがして

 

信じて

 

コンパス・オブ・ユアハート』

 

ウン…ウン……ワカル…そうだよね……地図はない冒険なんだよ…生きることって……冒険っていうのは決して楽しさとかワクワクだけじゃなくて、辛くてなんのためにやってるのか時にわからなくなりながらさ…頑張って続けてみるんだけど、地図になるようなものはなくってさ、だけど自分の生き方は自分でしか決められなくて、だからこそ自信なんてなくても自分を信じるしかないんだよね……!

 

そして、そんな等身大の『生きること』を高らかに歌い上げるシンドバットの姿を見て、なんだか胸の底が熱くなるのですよ

うう……思い出したら涙出てきた

 

いや、そうじゃなくて、

 

ソアリン

 

ソアリンの話だったね

 

えっと、そうそう、ここ最近ディズニーへの関心は基本的に技術力への関心だったのですよ。ただ、それって、子供の頃に感じていたディズニーへのワクワク感とは明らかに違っていたわけで。

僕らを魔法にかけようと手を変え品を変え色々なエンターテイメントを提供してくれるディズニーだが、それに対してシンクタンクやらPh.D.やら考えてしまう僕自身がなんだかすごくもったいない人間な気がしていたのである。

正直、小説を読んでいても言語学を勉強したせいで「あーこの表現の構造はこういう理論で説明できる」ということばかりが気になって話が入ってこないのと似ている。

絵を描く人で言ったら、漫画を読んでいても構図や描き方が先行してしまうような感じだ。

でもこれって、ホントに楽しいか?  小説を楽しむのではなく、言語学の理論を楽しんでいないか?  漫画を楽しむのではなく、技法を楽しんでいないか?  ディズニーの世界を楽しむのではなく、ディズニーの技術を楽しんでいないか?

人々が演劇に没入する中で、自分ひとりは劇の製作過程を想像してしたり顔でいるなんて、あまりに本質を欠いてはいないか?

絶世の美女をレントゲン写真から見るようなものだよ、こんなの。

 

つまるところ僕は、悲しいことに、ディズニーが本来与えてくれるはずの高揚感を忘れてしまっていたのだった。

 

だからこそ、ソアリンというアトラクションに乗る前も、一体どんな技術力を見せてくれるのだろう、そんな風な期待でもって列にならんでいた。

 

搭乗前にやたら女性という情報をプッシュする女性航空技師の話があって、男女共同参画社会のプロパガンダかあ? とか考えていたけどまあ正直それはどうでもいいや。

 

とにかく、僕はソアリンに乗った。乗り物自体の造りはひどく簡素なものだった。背もたれが異常に高いベンチにシートベルトがついてるみたいな、そんな感じだった。ディズニーにしては、もう少し凝ってるもんかと思ったが、想像の八割を下回るくらいのクオリティだった。いや、イスはどうでもいいんだよ、イスは。

 

シートベルトの確認が済むとこれからソアリンはじまりますよ的なアナウンスが流れた。正直、まだイスに座っただけで、これから何が起きるのか全く分からなかったので、若干怖かった。若干ね。

そう、ソアリンはジェットコースターのようにレールが敷かれているわけでもないし、ストームライダーのように動く密室に入れられるわけではない。背もたれが長めのベンチに座るだけなのである。これから予想される事態は、このままベンチが吹っ飛ぶか、VRゴーグルを被せられるかくらいしか考えられなかったので、どちらにせよ怖いことには変わりはなかった。

その時だった。

 

 

!?

 

 

足が、つかない…!?

 

 

なんと、ベンチは急上昇をはじめた。

平易にいえば、ベンチが浮いた。つまり前者だった、ベンチ吹っ飛んでるよマジか。

 

○結構なスピードだったので、正直高いところが苦手な人や脅かし系がダメな人はあまりオススメはできないかもね。

 

体感2〜3メートルくらい地面から離れたような気がするが、下がよく見えなかったのでよくわからなかった。

とにかく、ベンチに座っていたら気付いたら足が宙ぶらりんになっていた。訳がわからない。何をしてくれたんだディズニー。いや、これから何をするつもりなんだディズニー。

 

ふと気づくと頭上に蓋のようなものが降りてきていたが、まあ正直それはどうでもよかった。とにかく足宙ぶらりんがやべえ、その時はそんなことだけ考えていた。

 

少しすると、夜空っぽい風景を映していた眼前の壁がいきなり雪山の映像に切り替わった。

 

あ、これCMで見たやつだ!

 

そう思ったのもつかの間、映像が進むと、我々のベンチが山の頂きにぶつかりそうになったり、なんやかんやベンチ粉砕の危機に何度か立たされて肝が冷えた。いや、正確にいえばそういうふうに見せる映像が流れているのだけれど、目の前の一面に広がる壁だったものがすべて雪山の映像に切り替わったせいで、どうしても目の前のものを映像とは思えなくなっていた。映像が映像だとわかるのは、やはりそこに『画面』を感じ取るからだろう。つまるところ、どこからどこまでが画面か視認できないソアリンは、目の前のものを映像だと認識するのを禁じてきたのだ。それだけではない。どこからか向かい風が吹いているのである。そしてもちろん、揺れるし、傾く。映像が進んで海を渡るシーンになれば海の匂いがするし、大地を進めば土の匂いがした。

 

そもそも疑似体験というものは、夢のようなものである。夢の途中でそれが夢だと確かめる術があるように、疑似体験の途中には、実はそれが現実ではないと確かめる術がいくつか残されている。先ほどの、見てるものが用意された映像と認識するためには、映像のフレームとなっている画面を想定すればよいという考えもそうであるし、当然、地面に足をついて座っているだとか、慣性を感じないとか、そういう何かしらの、映像から得られる情報と矛盾する感覚を見つけ、それを証拠にして「今見ている映像は現実じゃないぞ」と思うことさえできれば、疑似体験の催眠から抜け出すことができる。

 

だが、もし疑似体験の催眠を解く手がかりをすべて封じられたとしたら?

疑似体験を疑似体験と気づけなかったら?

それはもう、「現実」だろう。

 

ソアリンは、それを忠実にやってみせた。

 

僕のように、「仕掛け」に目が向くような人間を完封しにかかってきたのだ。

 

もちろん、僕を疑似体験させにかかってくる技術や、それの元となった理論はなんとなくわかる。

エコロジカルセルフの考えに基づいて、ギブンソンの唱えたモデルでの「知覚システム」に働きかけようとする、そんな感じのアイディアですよね、みたいな風に思った。

だけど、違うのだ。それは今だから言えるだけであって、ソアリンに乗っている間はマジでそんなことは考えられなかった。

だって僕の脳内に入力される情報はどれも現実として解釈されるから。

ソアリンは恐ろしすぎた。それが作り物だと分かっているはずなのに、脳みそや身体は目の前で起こることを現実として処理しているのである。

ホントは違うのに、アタマとカラダが言うことを聞かない。

はっきり言ってやばい、作り物と認識してしまう人間に、強制的に現実だと認識させる、そういう意味ではあまりにも暴力的なエンターテイメントだ。

 

人間の感覚器官全てに働きかけて有無を言わさず暗示にかけてくる。つまり、作り物と認識させない作り物なのである。そうなると僕の手元に残るのはただ純粋の飛行体験だった。

 

 

君は空を飛んだことがあるだろうか?

 

 

無論、飛行機なんかとは違う

僕が、僕の身体で飛ぶのだ

 

そんなもの、ワクワクしないわけがない。

 

そこには、本来の意味での『非日常』があった。

 

 

レントゲン写真の絶世の美女は強制的に僕のその美貌を見せつけてくるのだ。ヤバい女だ。

 

やばいよね、やばいやばい

 

ああそうだよ、

 

 

 

このワクワクがディズニーだよ!!←???????????????

 

 

 

そんな感じで、気が付けばフワフワっとした高揚感の名残を抱えながら、僕はソアリンを出ていた。

 

麻辣ポップコーンめちゃくちゃ美味しい、なんかこう、香辛料がいい感じ。

 

正直ソアリンの良さは筆舌し尽くせないものだった。なんとか伝えようと思ったが、たぶんソアリンの良さをノギスで測る程度しか伝えられてない(一ミリも伝えられてないという意)。

 

だが、このソアリン、ディズニーを一歩引いて見てしまうようになった人にこそおすすめである。

ええ、たぶん、そんなことを伝えたかった…んだと…思います…ハイ

 

あと来場者が言うソアリンの発音の中で一定数が若干「ソワリン」に近い発音をしていたのがちょっと気になった。「ソォリン」みたいな発音もあったと思う。

 

えっと、なんだっけ、まあとにかく11月は師走ですって話。

 

黒髪モンローと熱海の秘宝

だいぶ時間が経ってしまったけれど、夏の思い出について綴りたい。

 

東京駅から東海道本線で約一時間半、車窓から都会の風景を右へ右へと流していると、やがて海辺の町が姿を現す。

 

僕は熱海に来ていた。

 

所属しているサークルの合宿として、八月の頭に僕とその部員たちは熱海に来ていた。

 

熱海というと、「有名な観光地」くらいのぼんやりとした認識ではないだろうか。少なくとも僕はそうであった。

確か、海と温泉があって、まあ、あとはほどほどに娯楽施設でもあるのだろう。

そういった認識をもって、僕は熱海の地を踏んだのだった。

 

熱海駅は賑わっていてまさに観光地といった風情だった。

到着した頃には正午を回っていたので、僕たちは昼食を取ろうということで熱海駅周辺をぶらついた。

駅周辺のごはん処はラーメン屋が数軒、蕎麦屋が二軒、海鮮の定食屋が二軒

その他は土産屋だった。あとマック。

なんとなく、なんとなくだけど、ちょっと心配になった。

とはいえ、まあ平日に訪れたので、こんなもんなのかなとはちょっと思った。チョットね。

 

昼は海鮮丼を食べた。酢飯がいい感じに温かくて美味しかった。

キスの隠語に刺し身を当てることがあるように、刺し身は人肌くらいになってるのが美味い。昔の人はこうして人食の欲求を解消してたんだろうなと思う。冗談ですよ。冗談。

 

そんなこんなで宿につくとなんやかんや美味しいビュッフェ(重要)とか露天風呂とかスマブラとかしていい感じに楽しんだ。ジャンクな食事やシャワー、歯車のようなルーチンに絡めとられた現代人にとっては、宿そのものが提供する「居心地」がエンターテイメントの役割を果たしていると思う。むしろ、資本主義の色が強い大型娯楽施設なんかと比べると、ゆっくりと自分のペースで、誰にも邪魔されない時間を与えてくれるような宿は大変ありがたい。

 

(ここからは下ネタが出てくるので苦手な人はブラウザバックしてください)

 

まあ、ここまでイロイロ書いたけれど、なんなら海にも行ったりはしたんだけど、(あとサークルの活動したり花火したりした)それらのイベント全てを差し置いて記事に書き起こそうとしたものがある。

 

それは秘宝館についてである。

 

まてまてググるな。説明する。秘宝館っていうのはカテゴリーとしてはテーマパークまたは博物館に属する施設である。ただ、取り上げている内容が、なんていうかその…エッチなのだ。うーん、いや、エッチというか、下ネタなのだ。そうだなあ、下ネタと言っても、中学生とかが喋ってるようなのじゃなくてね。正確に描述できる言葉が「ドリフのポロリ」とか「初期のバカ殿」とか、そんな感じなんだけど、このワードが共有できる人が読者にどのくらいいるかと問われれば、ため息をつかざるを得ない。しかしなんというか、全体的に昭和の雰囲気を残す下ネタなんですよ。平成生まれなんだけどさ僕。

そうだなあ、「性的な下ネタなんだけど、コロコロコミックっぽいテイストでお送りするイッツアスモールワールド」うん、これが一番分かりやすいかも。

いやまあ分かりやすいと言えども、兎角亀毛が如く、各名詞の意味することは分かるけど何が起きているのかわからないだろうから、ここからはもう実際に何があったか、いや、僕が何を見せられたのかを伝えていこうと思う。

あっ、ちなみに秘宝館のキャッチコピーは「大人のテーマパーク」です。

 

さて、まず入り口には男性器とか女性器をかたどった石像があった。一応、「大人のテーマパーク」とか、「十八歳以上しかチケットを買えない」とか、そういう触れ込みがあったので予想はしていた。だから正直この時点では「フン……この程度か」と僕はムッツリと鼻で笑っていた。

それから少し進むと俗に言う「四十八手」が描かれた絵巻物が模型と共に壁に貼られていた。存在は知っていたが実際に全容を見たことがなかったので、「AKB48」と「四十八手」は関係あるのだろうかと負の鏡像関係に思いを馳せながら色々と見ていた。しかし、二十手くらいから序盤の応用形を使っていることに気づいた。なんていうか、注意深く見ないと違いが分からないものまであった。いやまあ注意深く見るようなものでもないんだけどさ。トリコという漫画で、主人公トリコが使う「ナイフ」という技が、「ナイフ→フライングナイフ→レッグナイフ」と進化していくのに似ていると思った。島袋先生すいません。

でも、性器の石像も四十八手も、僕に言わせてもらえば"オコサマ"レベルだった。ツイッターで定期的にバズる、4p目で赤面するやたら巨乳のギャルや委員長たちの方がまだエチチな雰囲気がある。

しかし、三階建ての秘宝館、こんなもの序の口だった。

事件が起きたのは一フロア目の終盤だった。そこには壁一面が鏡になっている鏡の間だった。その部屋の中心には赤い一人がけのソファーがあって、座るとムービーが流れるらしい。

一体どんなムービーが流れるのだろう。どうせオコサマレベルのムービーだろうという諦めと、ちょっとエッチなのかなという期待が入り混じった複雑な心情を奥歯に噛み締めながら僕は席についた。今思えば、この時点ですでに僕は秘宝館に踊らされていたのだと思う。

着席すると、なぜかメイド服を来たリアルな女性が鏡の上に出現した。それなりにふくよかな体型で、胸も、まあなんというか、それなりにすごかった。しかし僕はいつだって冷静なので、「まあ、この女の人がスカートをヒラヒラさせて『うっふーん』とか言うんだろ?」と嘲笑を浮かべてその女性を眺めていた。だが、僕は甘く見過ぎていた。大人の世界とは何たるかを。

 

そもそも大人とは何か。

 

僕はその意味を履き違えていた。今年で20歳になったばかりの僕は、お酒が飲めるようになるとか、賭博ができるだとか、そういう権利に、いわば自分に加わったかりそめの「大人」に酔っていたのだ。

しかし、それがいかに愚かで稚拙な誤りであったかを、秘宝館の鏡の間は僕に教え諭したのであった。

 

鏡の中の女性は、徐に上着を脱ぎだした。女性の下着をこんなマジマジと見ることなんて到底ないので、僕の前頭葉は若干困惑するも、「へっ、下着程度でエロかよ、まだまだだな」と、僕の脳下垂体は減らず口を叩いていた。

しかしその直後、なんのためらいもなくその女性はブラジャーのホックを外した。

 

「ど、どうせ手で隠すんだろ?」

 

それは、どちらかというと念押しの意味での推理だった。いや、さすがに全部見せるはずないよな、そんなことしたらダメだもん、そこは『食戟のソーマ』でも絶対に見えなかったとこだもん。

その時僕は自分が"それ"を見たいのか見たくないのか、分からなくなっていた。

否、夏目漱石が「書くか迷った文は、迷った時点で書くべきではない文だ」と言ったように、それを見るべきか迷った時点で、確かに僕はきっとそれを見るべきではないものだと認識していたのだ。いわば「It 〜それが見えたら終わり〜」状態だ。0.02秒の間にそんな逡巡をしていると、女性は何事もなかったかのようにそのまま両手を腰に当てた。

 

!?

 

!!!???

 

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あまりにも無駄がない動きだった。

 

お、お、おおお、お、おぱ…お……??

 

その女性は、まるでそれがごく自然であるかのように、我々の服を着る文化を一蹴するがごとく、自らの"それ"をさらけ出したのであった。

 

驚愕のあまり僕は前かがみになった。驚愕のあまりにね。驚いただけだから。

なんというか、もうその女性は上裸で下はショーツだけという、なんで最初にメイド服着てきたんだよと言わざるを得ない様相を成していて、僕は錯乱した。

 

しかし、これだけではなかった。

 

彼女は自身のショーツに指を通したのである。

 

フツーは見せちゃいけないトコじゃん。なんて、通じない。秘宝館はそういう場所だったのだ。もうこれはオコサマレベルの下ネタなんかじゃない。日本よ、これが世界だ。

 

 

──これが大人の世界なんだ

 

 

全てを破壊された後の虚無、絶望の後の諦め。

僕はその時初めて"秘宝館"を受け入れることとなった。

ああ、僕は見てしまうんだ。テレビや漫画じゃ絶対に見れないところが、これが……大人の世界なのか。

 

純白の布切れが彼女の足からこぼれた時にはもう、僕はいままでの僕ではなくなっていた。悪友とともに、ビデオショップのアダルトコーナを一瞬だけ覗いてみたり、ブックオフの「ふたりエッチ」を押し付け合いながら読んでみたりした、あの時のようなドキドキ感は、泡沫の夢のように、ひどく冷めたものになっていた。

 

モザイクなんてものは無く、そこには全裸の女性が突っ立ってた。正直、わけがわからない。なんでこの女は脱いだんだ?  どうして脱ぐ必要があった?  ナンデ脱ぐ?  脱ぐナンデ?

わざわざ裸になってもらった割には申し訳ないが、どうしてこんな仕事を受けたんですか?  そんな感想が湧き上がってきた。

 

大人になった僕は「チェンジで」と言わんばかりにソファを去り、秘宝館の下層へと歩を進めた。秘宝館は三階からはじまり、一階でおわるのである。大人になった僕はこの順路はフロイトの自我についての考察を元にしたメタファーなのだろうかとか、考えはじめた。ふふ、大人だからね。

 

次に待ち受けていたのは「新訳浦島太郎」というショートムービーだった。この森見登美彦的試みは一体なんだろうと期待したが、「浦島太郎…下ネタ…亀…あっ」と合点がいった。いやまさかそんなはずないと思ったが、そのとおりだった。亀を助け、自身の亀をパワーアップさせた浦島太郎(おっさん)が竜宮城でタイやヒラメの絵を頭に被った全裸の女性とハッスルしているアダルティなビデオを見るだけに終わった。隣りで一緒に見ていた僕の尊敬する先輩は「タイの子がいいね。タイなのに貧乳なのが美味しい」とか言っていた。頭おかしいんじゃないかと思った。

 

だが、そのあたりから僕はこの秘宝館という空間を確実に楽しんでいた。

 

性はタブー。性的なものは隠すべき。

 

その主張はある意味正しい。だけど、性的なもの自体は悪なのかと問われると、素直に首を縦に振ることはできない。なぜなら、男や女に縛られずとも、性というものは誰もが自分の中に持っているから。自分の中にあるものは隠すことはできても除こうとすることはできない。

「隠す」という言葉には2つの意味がある。それは、臭いものにフタをするような意味での「隠す」。もうひとつは、大事なものが外の世界に触れないように「隠す」という意味。性を隠すときの「隠す」はどっちだろう。

僕は後者だと思った。安易に他人に見せるようなものじゃないお宝を隠すように、性を隠すんじゃないかと思う。だけど、大事な宝物はたまには見て楽しまないと価値を思い出せない。だから、めいっぱいお宝を見る場所がきっと必要なんだと思う。

そういう意味で、ここは秘宝館だった。

 

胸が空いた。

 

秘宝館の展示が終盤になってくると、マリリンモンローが僕らを出迎えた。

 

残念なことに、僕の得た秘宝館での経験はここで瓦解することになるのだった。

 

それは、レバーだかボタンだか忘れたが(忘れた理由は後述する)、ギミックを作動させるとマリリンモンローの足元から風が吹くという展示だった。

 

これは知ってるぞ、と思ったが、当のマリリンモンローのスカートを抑える手はどこか弱々しかった。

 

僕はマリリンモンローの足元へ風を吹かせた。

 

穏やかな風が彼女のまっさらなワンピースをすくいあげる。人生初のスカートめくりだった。風力はドンドン増していく。布が舞い上がるにつれ、太ももの膨らみは増していく。そしてついに、白く伸びた大腿の根元が顔を出した。

当然のごとく、履いてない。安心してください。履いていませんよ。と言わんばかりに、至極当然、諸行無常祇園精舎の鐘の声、履いてないの当たり前、と言った風情だった。

 

しかし、僕が目に止めたのはそこではなかった。

 

 

黒髪なのである。

 

 

 

金髪のモンローのアンダーグラウンドは黒髪だったのである。

 

 

 

僕に浮かんだ言葉は「和洋折衷」だった。いやそうじゃない。

 

鏡の間で大人の世界へと足を踏み入れた僕だったが、この瞬間に僕は「大人の世界」に失望した。

モンローは黒髪、モンローは黒髪、黒髪、黒髪、黒髪モンロー……

なぜだか次の展示を見てもちっとも面白くない。

黒髪モンロー、こいつのせいで僕はこの秘宝館が「所詮はつくりものの世界」だと知った。隠すべきものを、ここだけではさらけだすことができる。そんな、許された空間だと思っていた。救いのための空間だと信じていた。信じていたのに、それは金髪を黒髪と間違えるような空間だと知った。要は、つくりものだったんだ。

 

(今はわからないが)幼少期、ミッキーマウスに抱きついたときに感じた「生物ではない硬さ」と同じように痛烈な、現実の冷たさに僕は苛まれた。

 

ひどい喪失感とともに、しばらくモンローの黒髪が頭からこびりついて離れなかった。

だからどうやってモンローの黒髪を拝んだのかよく覚えていない。僕の熱海旅行はぜんぶモンローの黒髪に持って行かれてしまったのだから。

いや、これはさすがに盛ったけど。

 

振り返ってみれば、そこまで落ち込むことじゃないと思うんだけど、そこは僕が本当の意味で大人になったってことなんだと思う。

 

お酒や賭け事を知っただけで大人になるわけではないのと一緒で、エッチなことを知ってるだけで大人になるわけではないのである。

きっと、大人になる、ならないみたいな、あいつはガキだとか、そんなことを考えているうちはまだまだ大人になりきれてないんだと思う。

本当の大人っていうのはほら、なんていうか、えっと、まあ、なんだろ、アレだよ、ぜひ秘宝館に行って確かめてみるといいよ。

あとなんかカップルで秘宝館来てイチャコラボディータッチしてる輩が居たが、それはホテルでAVでも見ながらやってほしいと思った。熱海の魚は人肌で美味い。

私は齋藤飛鳥を知らない

Twitterをやっていると、世の中の流行りやらニュースがそれとなく伝わってくることがある。

 

私はその手の業界には暗い上にテレビをあまり観ないのだが、それでも有名なアイドルというのはごくたまに私の耳入ってくる。

今回は、アイドル文化からほぼ縁のない生活を送る(まあ車内広告とかで見るのだけれど)私が、最近よく耳にするアイドルについて話そうと思う。

 

齋藤飛鳥

 

確か、彼女はそういう名前だったと思う。

 

乃木坂だか、欅坂だか、全力坂だか、とにかく坂だったと思う。所属しているグループが。

 

齋藤飛鳥、「齋藤」も「飛鳥」もそれぞれ珍しくないネーミングだが、「齋藤飛鳥」という字面を目にすると、そこはかとなく珍しいような、なんだかありがたみがありそうな、仏教的なスピリチュアルみを感じる。般若心経の一節に紛れ込ませても違和感がなさそうである。

 

画数もさることながら、字形も詰まっていて重みがある。齋藤も飛鳥もどことなく古風な雰囲気を匂わせる。だが、これが「田中飛鳥」あるいは「齋藤美咲」などだったら、きっとこのような奥ゆかしさは生じなかったであろうと考えられる。

 

齋藤飛鳥、その文字列からは凛とした華やかさがほのかに顔を覗かせる。

きっと痩身で黒髪の乙女なのだろう。張り詰めた糸のように伸びた背筋(せすじ)の上に青柳のような長髪を流して、一歩また一歩と脚を運ぶたびに、白檀の香りをあたりに振りまくような、そのような女性なのだろう。

 

ここまでの流れでお分かりいただけただろうか。

 

何を隠そう私は齋藤飛鳥を知らない。

 

一度、バイト先の先輩に、なにがし坂の動画を見せてもらい、「これが齋藤飛鳥」と言われたことがあるが、正直、人が多くて誰のことか分からなかった。

その時は、まあ、グループのメンバーはみな美人らしい美人だったので「なるほどこれは美人だ」と相槌を打ったが、結局彼女の素顔というものは分からないままなのである。

ただ、名前の雰囲気と評判から、私の頭の中で「齋藤飛鳥という女は、さぞ美しかろう」というイメージだけが自分勝手に膨張を続けている。

 

顔が見えなければ、評判やら、名前の雰囲気からその人物像を形作っていくのが人間というものらしい。足りない情報は、手元にある情報で補われるのだ。

 

容姿を見ただけや、あるいは世間話程度のコミュニケーションしかしていない相手のパーソナリティ(気質や個性)は紛れもなく私たちが自身の経験から勝手に補綴したものが混ざっている。

簡単に言うと、大して深く関わったことのない相手に抱く印象は、大概は妄想に満ちているということだ。

 

確かに私は齋藤飛鳥について名前以外ほとんど知らないが、齋藤飛鳥をテレビやSNS、あるいはライブや握手会などで追いかけているファンに対しても同じことが言えるだろう。

 

結局私たちは、彼女が「アイドル」として見せる一面からしか彼女のパーソナリティはわからない。

つまりわたしのように名前で妄想することと五十歩百歩である。

私たちに残された手段は、その一面を除いた空白に、それぞれ思い思いの空想を補完していくことである。

 

しかし、それは必ずしも虚しいことではないだろう。

 

ジョハリの窓」という考え方がある。

 

元々の目的は自己分析のようだが、私がこのモデルを引き合いに出した理由は別にある。

ジョハリの窓モデル内では、自己を以下の4つに分類している。

○自分も他人も知っている自己

○自分しか知らない自己

○他人しか知らない自己

○自分も他人も知らない自己

 

そして、このモデルで私が着目したのは、

 

「自己というものがすべて解き明かされることはない」という点だ。

 

つまり、誰かを限られた側面からしか理解できないということは、逃れようのない摂理である、ということ。

だからこそ、分からない部分はなんとなく補う、というのは成り行きとしてはもっともらしい。いたって普通の営みだ。

 

 

椅子に腰掛けて見ているテーブルの上のりんごの裏側も、おそらく赤色であるだろう。

 

そもそも人間はそうして世界(我々が感じているあらゆる現実)を形作っている。

一面から見た齋藤飛鳥はおそらく他の面から見ても美しいのだろう。

ほのかに朱を抱いたりんごの艶のように、頬をかすかに染めた瑞々しい少女の姿がそこにはあるのだろう。

 

分からない部分を空想で埋めるからこそ生じる魅力がある。

 

同時に、分からない部分を空想で埋めていく楽しさもある。

 

きっと彼女はどこにいても可愛らしいのだろう

 

彼女はたぶん、私の知らないところでもあの美しさを誰かに振りまいているのだろう

 

そのような想像の楽しみがある。この楽しさを実現させるための余地、つまり空白は、他者を完全に理解できないことを決定付けられた人類だからこそ享受できる楽しさではないだろうか。

今なら、なぜ平安貴族が隔絶された恋愛を楽しめたのかが自ずと理解できる。

 

好きな人の心をもっとよく知りたい、そういう気持ちが人間にはある。だが面白いことに、人間には、好きな人の本心を知ってしまうことが怖い、という気持ちもある。

だからこそ、人間はしばしば妄想をする。しかしそれも人間関係のなかでは必ず通るべき営みではなかろうか。

 

つまり、完全に知ることのできない齋藤飛鳥に対する妄想を膨らませていくことは、私たち人間にとって必要不可欠な営みなのである。

 

私は齋藤飛鳥を知らない。