私は齋藤飛鳥を知らない

Twitterをやっていると、世の中の流行りやらニュースがそれとなく伝わってくることがある。

 

私はその手の業界には暗い上にテレビをあまり観ないのだが、それでも有名なアイドルというのはごくたまに私の耳入ってくる。

今回は、アイドル文化からほぼ縁のない生活を送る(まあ車内広告とかで見るのだけれど)私が、最近よく耳にするアイドルについて話そうと思う。

 

齋藤飛鳥

 

確か、彼女はそういう名前だったと思う。

 

乃木坂だか、欅坂だか、全力坂だか、とにかく坂だったと思う。所属しているグループが。

 

齋藤飛鳥、「齋藤」も「飛鳥」もそれぞれ珍しくないネーミングだが、「齋藤飛鳥」という字面を目にすると、そこはかとなく珍しいような、なんだかありがたみがありそうな、仏教的なスピリチュアルみを感じる。般若心経の一節に紛れ込ませても違和感がなさそうである。

 

画数もさることながら、字形も詰まっていて重みがある。齋藤も飛鳥もどことなく古風な雰囲気を匂わせる。だが、これが「田中飛鳥」あるいは「齋藤美咲」などだったら、きっとこのような奥ゆかしさは生じなかったであろうと考えられる。

 

齋藤飛鳥、その文字列からは凛とした華やかさがほのかに顔を覗かせる。

きっと痩身で黒髪の乙女なのだろう。張り詰めた糸のように伸びた背筋(せすじ)の上に青柳のような長髪を流して、一歩また一歩と脚を運ぶたびに、白檀の香りをあたりに振りまくような、そのような女性なのだろう。

 

ここまでの流れでお分かりいただけただろうか。

 

何を隠そう私は齋藤飛鳥を知らない。

 

一度、バイト先の先輩に、なにがし坂の動画を見せてもらい、「これが齋藤飛鳥」と言われたことがあるが、正直、人が多くて誰のことか分からなかった。

その時は、まあ、グループのメンバーはみな美人らしい美人だったので「なるほどこれは美人だ」と相槌を打ったが、結局彼女の素顔というものは分からないままなのである。

ただ、名前の雰囲気と評判から、私の頭の中で「齋藤飛鳥という女は、さぞ美しかろう」というイメージだけが自分勝手に膨張を続けている。

 

顔が見えなければ、評判やら、名前の雰囲気からその人物像を形作っていくのが人間というものらしい。足りない情報は、手元にある情報で補われるのだ。

 

容姿を見ただけや、あるいは世間話程度のコミュニケーションしかしていない相手のパーソナリティ(気質や個性)は紛れもなく私たちが自身の経験から勝手に補綴したものが混ざっている。

簡単に言うと、大して深く関わったことのない相手に抱く印象は、大概は妄想に満ちているということだ。

 

確かに私は齋藤飛鳥について名前以外ほとんど知らないが、齋藤飛鳥をテレビやSNS、あるいはライブや握手会などで追いかけているファンに対しても同じことが言えるだろう。

 

結局私たちは、彼女が「アイドル」として見せる一面からしか彼女のパーソナリティはわからない。

つまりわたしのように名前で妄想することと五十歩百歩である。

私たちに残された手段は、その一面を除いた空白に、それぞれ思い思いの空想を補完していくことである。

 

しかし、それは必ずしも虚しいことではないだろう。

 

ジョハリの窓」という考え方がある。

 

元々の目的は自己分析のようだが、私がこのモデルを引き合いに出した理由は別にある。

ジョハリの窓モデル内では、自己を以下の4つに分類している。

○自分も他人も知っている自己

○自分しか知らない自己

○他人しか知らない自己

○自分も他人も知らない自己

 

そして、このモデルで私が着目したのは、

 

「自己というものがすべて解き明かされることはない」という点だ。

 

つまり、誰かを限られた側面からしか理解できないということは、逃れようのない摂理である、ということ。

だからこそ、分からない部分はなんとなく補う、というのは成り行きとしてはもっともらしい。いたって普通の営みだ。

 

 

椅子に腰掛けて見ているテーブルの上のりんごの裏側も、おそらく赤色であるだろう。

 

そもそも人間はそうして世界(我々が感じているあらゆる現実)を形作っている。

一面から見た齋藤飛鳥はおそらく他の面から見ても美しいのだろう。

ほのかに朱を抱いたりんごの艶のように、頬をかすかに染めた瑞々しい少女の姿がそこにはあるのだろう。

 

分からない部分を空想で埋めるからこそ生じる魅力がある。

 

同時に、分からない部分を空想で埋めていく楽しさもある。

 

きっと彼女はどこにいても可愛らしいのだろう

 

彼女はたぶん、私の知らないところでもあの美しさを誰かに振りまいているのだろう

 

そのような想像の楽しみがある。この楽しさを実現させるための余地、つまり空白は、他者を完全に理解できないことを決定付けられた人類だからこそ享受できる楽しさではないだろうか。

今なら、なぜ平安貴族が隔絶された恋愛を楽しめたのかが自ずと理解できる。

 

好きな人の心をもっとよく知りたい、そういう気持ちが人間にはある。だが面白いことに、人間には、好きな人の本心を知ってしまうことが怖い、という気持ちもある。

だからこそ、人間はしばしば妄想をする。しかしそれも人間関係のなかでは必ず通るべき営みではなかろうか。

 

つまり、完全に知ることのできない齋藤飛鳥に対する妄想を膨らませていくことは、私たち人間にとって必要不可欠な営みなのである。

 

私は齋藤飛鳥を知らない。