君は空を飛んだことはあるか

今年もあと二ヶ月

 

とだけ下書きに書いていたが、まあ言いたいことは今は11月であるってこと

 

睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、神無月……えっとなんだっけ、師走?

 

僕はなぜか月の異名の中で11月だけ覚えられない。霜月らしい。

 

そんな11月。余談だけれど、年度末(弥生)と年末(師走)だけ「月」という字が付いていない。これは偶然だろうか?

 

偶然ですね、だって旧暦と西暦はずれてますから。

 

ともかく11月、見方を変えると三月になりそうなので、ここでは1011月としましょう。嘘です、というか、今回の記事は11月の話ではないですし。

 

今回話すのはもう何ヶ月前か忘れた9月の話です。

 

ディズニーシーに行ったときの話です。

 

ディズニーシーがあるとすれば、ディズヒガーシーがありそうですが、なぜだか対を成すのはディズニーランドみたいです。

 

さてこのディズニーシーやディズヒガーシーには、ファストパスというチケットがありまして、これがどういうチケットかというと、要するに整理券で、あらかじめファストパスを発行し、記載された指定の時間内に専用ゲートに行くと、通常の待ち時間より早くアトラクションを楽しめるという代物。

 

だが、今年からだっただろうか、そのファストパスの発券がスマホで行えるようになったのである。

発券機から出された券を手渡すというラーメン屋レベルの文明から一気にスマートでハイテクノロジーイノベーションにローンチし、チケットのゲインにハレーションを起こすマターに対するドラスティックなソリューションをASAPで打ち立てたのである

サマる(要約する)とディズニーは意識ちょー高い、神。

 

そもそも、アトラクションのギミックに最先端の映像技術をバンバン詰め込んでいるディズニー様なのだから、そういった技術系のセンスはかなり鋭敏なはずである

 

だからこそスマホファストパスの導入はやや遅いとも言えそうである。だが、ファストパス取得アプリの前身である公式パークガイドアプリがあったので、きっと来場者のうちどのくらいがそのパークガイドアプリをインストールしているかとか、その他僕の想像に及ばない統計的な調査を経て実装に至ったのだと思う

そういう膨大な調査がバックボーンにあったとすれば、かえって着手が早すぎる気もしてきた

 

ディズニーって研究所でも持ってるのかね、それともどっかのシンクタンクに委託してるのだろうか

もちろんアトラクションというハード面での技術力もさることながら、きっとパークのUXのために費やされた社会学や心理学の叡智もそれに並ぶだろうと思う

 

ディズニーを嬉々として駆ける「ディズニーで働きたい!」という少年少女たちは将来旧帝大早慶を経てPh.D.を取得し、ディズニー専属研究員となるのだろうか

 

何の話してたっけ、えっと、話したかったのはアレです、アプリでソアリンのファストパスがギリギリ取れたよって話です

 

んで、ソアリンに乗ったんです

 

もうね

 

やばいと

 

ディズニー好き! 大好き! ってなった

 

話のペースが急転直下したので読者諸君はびっくりしただとろうと思う

これが読むタワーオブテラーってね、はははは

 

まあなんというか、先ほどのテクノロジーの話に戻るのだが、この歳になるとディズニーで見せられる体験は、確かに非日常ではあるのだが、ああこれはプロジェクションマッピングだとか、これは座席を振動させてるだとか、そういった『技術力』に対して感じる非日常なのである。要は、ディズニーで感じる非日常は、普段触れない技術をおめにかかるという意味での非日常となってしまうのだ。

となると、かえってコンテンツ勝負に持ち込んだ古典的な『シンドバットの冒険』とか、そっちの方がグッと来るようになる

毎回ボロ泣きする。アレ見るとなぜか情緒がふにゃふにゃになる。日常のしがらみから開放されたような、洗われたような気分になる。たぶんあのアトラクションが消えたら僕は静かに血涙を流しながらコンパス・オブ・ユアハートを唄って入水自殺を決めてしまう自信がある。それくらい好き。

 

『人生は冒険だ、地図はないけれど

 

宝物さがして

 

信じて

 

コンパス・オブ・ユアハート』

 

ウン…ウン……ワカル…そうだよね……地図はない冒険なんだよ…生きることって……冒険っていうのは決して楽しさとかワクワクだけじゃなくて、辛くてなんのためにやってるのか時にわからなくなりながらさ…頑張って続けてみるんだけど、地図になるようなものはなくってさ、だけど自分の生き方は自分でしか決められなくて、だからこそ自信なんてなくても自分を信じるしかないんだよね……!

 

そして、そんな等身大の『生きること』を高らかに歌い上げるシンドバットの姿を見て、なんだか胸の底が熱くなるのですよ

うう……思い出したら涙出てきた

 

いや、そうじゃなくて、

 

ソアリン

 

ソアリンの話だったね

 

えっと、そうそう、ここ最近ディズニーへの関心は基本的に技術力への関心だったのですよ。ただ、それって、子供の頃に感じていたディズニーへのワクワク感とは明らかに違っていたわけで。

僕らを魔法にかけようと手を変え品を変え色々なエンターテイメントを提供してくれるディズニーだが、それに対してシンクタンクやらPh.D.やら考えてしまう僕自身がなんだかすごくもったいない人間な気がしていたのである。

正直、小説を読んでいても言語学を勉強したせいで「あーこの表現の構造はこういう理論で説明できる」ということばかりが気になって話が入ってこないのと似ている。

絵を描く人で言ったら、漫画を読んでいても構図や描き方が先行してしまうような感じだ。

でもこれって、ホントに楽しいか?  小説を楽しむのではなく、言語学の理論を楽しんでいないか?  漫画を楽しむのではなく、技法を楽しんでいないか?  ディズニーの世界を楽しむのではなく、ディズニーの技術を楽しんでいないか?

人々が演劇に没入する中で、自分ひとりは劇の製作過程を想像してしたり顔でいるなんて、あまりに本質を欠いてはいないか?

絶世の美女をレントゲン写真から見るようなものだよ、こんなの。

 

つまるところ僕は、悲しいことに、ディズニーが本来与えてくれるはずの高揚感を忘れてしまっていたのだった。

 

だからこそ、ソアリンというアトラクションに乗る前も、一体どんな技術力を見せてくれるのだろう、そんな風な期待でもって列にならんでいた。

 

搭乗前にやたら女性という情報をプッシュする女性航空技師の話があって、男女共同参画社会のプロパガンダかあ? とか考えていたけどまあ正直それはどうでもいいや。

 

とにかく、僕はソアリンに乗った。乗り物自体の造りはひどく簡素なものだった。背もたれが異常に高いベンチにシートベルトがついてるみたいな、そんな感じだった。ディズニーにしては、もう少し凝ってるもんかと思ったが、想像の八割を下回るくらいのクオリティだった。いや、イスはどうでもいいんだよ、イスは。

 

シートベルトの確認が済むとこれからソアリンはじまりますよ的なアナウンスが流れた。正直、まだイスに座っただけで、これから何が起きるのか全く分からなかったので、若干怖かった。若干ね。

そう、ソアリンはジェットコースターのようにレールが敷かれているわけでもないし、ストームライダーのように動く密室に入れられるわけではない。背もたれが長めのベンチに座るだけなのである。これから予想される事態は、このままベンチが吹っ飛ぶか、VRゴーグルを被せられるかくらいしか考えられなかったので、どちらにせよ怖いことには変わりはなかった。

その時だった。

 

 

!?

 

 

足が、つかない…!?

 

 

なんと、ベンチは急上昇をはじめた。

平易にいえば、ベンチが浮いた。つまり前者だった、ベンチ吹っ飛んでるよマジか。

 

○結構なスピードだったので、正直高いところが苦手な人や脅かし系がダメな人はあまりオススメはできないかもね。

 

体感2〜3メートルくらい地面から離れたような気がするが、下がよく見えなかったのでよくわからなかった。

とにかく、ベンチに座っていたら気付いたら足が宙ぶらりんになっていた。訳がわからない。何をしてくれたんだディズニー。いや、これから何をするつもりなんだディズニー。

 

ふと気づくと頭上に蓋のようなものが降りてきていたが、まあ正直それはどうでもよかった。とにかく足宙ぶらりんがやべえ、その時はそんなことだけ考えていた。

 

少しすると、夜空っぽい風景を映していた眼前の壁がいきなり雪山の映像に切り替わった。

 

あ、これCMで見たやつだ!

 

そう思ったのもつかの間、映像が進むと、我々のベンチが山の頂きにぶつかりそうになったり、なんやかんやベンチ粉砕の危機に何度か立たされて肝が冷えた。いや、正確にいえばそういうふうに見せる映像が流れているのだけれど、目の前の一面に広がる壁だったものがすべて雪山の映像に切り替わったせいで、どうしても目の前のものを映像とは思えなくなっていた。映像が映像だとわかるのは、やはりそこに『画面』を感じ取るからだろう。つまるところ、どこからどこまでが画面か視認できないソアリンは、目の前のものを映像だと認識するのを禁じてきたのだ。それだけではない。どこからか向かい風が吹いているのである。そしてもちろん、揺れるし、傾く。映像が進んで海を渡るシーンになれば海の匂いがするし、大地を進めば土の匂いがした。

 

そもそも疑似体験というものは、夢のようなものである。夢の途中でそれが夢だと確かめる術があるように、疑似体験の途中には、実はそれが現実ではないと確かめる術がいくつか残されている。先ほどの、見てるものが用意された映像と認識するためには、映像のフレームとなっている画面を想定すればよいという考えもそうであるし、当然、地面に足をついて座っているだとか、慣性を感じないとか、そういう何かしらの、映像から得られる情報と矛盾する感覚を見つけ、それを証拠にして「今見ている映像は現実じゃないぞ」と思うことさえできれば、疑似体験の催眠から抜け出すことができる。

 

だが、もし疑似体験の催眠を解く手がかりをすべて封じられたとしたら?

疑似体験を疑似体験と気づけなかったら?

それはもう、「現実」だろう。

 

ソアリンは、それを忠実にやってみせた。

 

僕のように、「仕掛け」に目が向くような人間を完封しにかかってきたのだ。

 

もちろん、僕を疑似体験させにかかってくる技術や、それの元となった理論はなんとなくわかる。

エコロジカルセルフの考えに基づいて、ギブンソンの唱えたモデルでの「知覚システム」に働きかけようとする、そんな感じのアイディアですよね、みたいな風に思った。

だけど、違うのだ。それは今だから言えるだけであって、ソアリンに乗っている間はマジでそんなことは考えられなかった。

だって僕の脳内に入力される情報はどれも現実として解釈されるから。

ソアリンは恐ろしすぎた。それが作り物だと分かっているはずなのに、脳みそや身体は目の前で起こることを現実として処理しているのである。

ホントは違うのに、アタマとカラダが言うことを聞かない。

はっきり言ってやばい、作り物と認識してしまう人間に、強制的に現実だと認識させる、そういう意味ではあまりにも暴力的なエンターテイメントだ。

 

人間の感覚器官全てに働きかけて有無を言わさず暗示にかけてくる。つまり、作り物と認識させない作り物なのである。そうなると僕の手元に残るのはただ純粋の飛行体験だった。

 

 

君は空を飛んだことがあるだろうか?

 

 

無論、飛行機なんかとは違う

僕が、僕の身体で飛ぶのだ

 

そんなもの、ワクワクしないわけがない。

 

そこには、本来の意味での『非日常』があった。

 

 

レントゲン写真の絶世の美女は強制的に僕のその美貌を見せつけてくるのだ。ヤバい女だ。

 

やばいよね、やばいやばい

 

ああそうだよ、

 

 

 

このワクワクがディズニーだよ!!←???????????????

 

 

 

そんな感じで、気が付けばフワフワっとした高揚感の名残を抱えながら、僕はソアリンを出ていた。

 

麻辣ポップコーンめちゃくちゃ美味しい、なんかこう、香辛料がいい感じ。

 

正直ソアリンの良さは筆舌し尽くせないものだった。なんとか伝えようと思ったが、たぶんソアリンの良さをノギスで測る程度しか伝えられてない(一ミリも伝えられてないという意)。

 

だが、このソアリン、ディズニーを一歩引いて見てしまうようになった人にこそおすすめである。

ええ、たぶん、そんなことを伝えたかった…んだと…思います…ハイ

 

あと来場者が言うソアリンの発音の中で一定数が若干「ソワリン」に近い発音をしていたのがちょっと気になった。「ソォリン」みたいな発音もあったと思う。

 

えっと、なんだっけ、まあとにかく11月は師走ですって話。