漢字の検定を受けた話

このブログ、二週間前には三ヶ月前のことを書いていて、一週間前には二か月前のことを書いているので、まあ例にもよって今回は一ヶ月前のことを話します。

 

この勘定でいくと三日後に今月のことを話して、その二日後には来月のことを話しているはずです。まってくれ、更新頻度が著しく上がっていくではないか。

 

累乗というのは恐ろしいもんだ。一休さんも、「米をひと粒ください、明日は倍のふた粒、明後日はその倍をという感じで米をください」と言って、一ヶ月も経たないうちに米屋を破壊したらしい。(計算が間違ってなければ、30日目は大体1トンくらいもらえるが、もちろんそれまで貰った米の分もあると考えると、その量は計り知れない。お米だけに)

そう考えると、「冷たい水をください。できれば愛してください」と言ったポルノグラフィティの方がよっぽどお坊さんっぽいよね。

 

さて、神無月の話です。あ、いや、モノマネする方ではなく、1010月の話です。あれ、というか10月って二進数でも10月感が薄れないね、すごいや。

 

じゃなくて、とりあえず10月の20日にですね、漢字検定を受けてきました。

 

受けたのは準一級でした。一級は参考書自体が少なくて誰がどうやって受けるのかすらわからなかったので、準一級にしました。

 

準一級がどれほどの難易度なのかを説明するために、実際の問題を紹介します

 

(1)誰何した(すいか)

(2)柴扉に暮らす(さいひ)

(3)クツベラを取る(靴篦)

(4)シランの人だ(芝蘭)

(5)情緒纏綿(じょうしょてんめん)

(6)キンキジャクヤク(欣喜雀躍)

(7)擬える(なぞらえる)

(8)縦にする(ほしいまま)

(9)ナンナンとする(垂んとする)

 

こんな感じです。使うかよ、って思うかもしれませんが、まあ日常生活どころか一生使わないですねたぶん。それもそのはず、漢検準一級は常用漢字外の熟語や読みが試験範囲になっているのです。

でも、知らない漢字を知ってるって、なんかカッコイイ。そうは思いません?  思いませんか…ははあ、そうですか。

もちろん相手の知らない言葉を勝手に使うと、それはもう外国語を話しているのとほとんど変わらないからコミュニケーションで活かそうなどとは考えてないんだけど、確かに言えるのは、語彙力がつくということ。

 

いやいや、語彙力って使う場所がなければ無価値じゃん。

 

そう思った方も少なくはないだろう。だが、一概にそうは言えないのである。

まず、語彙力は誰かに使えなければ意味がないという考え方について整理しよう。

 

第一に、語彙というものの一般的なイメージとして、頭の中の辞書からひっぱりだして声やら紙やらに写しとるものというのがあると思う。

 

実際、言語学にはレキシコンと言われる脳内の辞書を元に人間は語彙選択をしているというモデルもある(最近だとこのモデルは微修正され厳密には紙の辞書を引くイメージにはなってないけど、基本はそんな感じ)。

 

とにかく、一般に、何かものを言う場合は自分の持ってる語彙の中から自分の伝えたいことに合ったものを選びとって、それを伝えているという考え方がある。

 

この考え方の場合、自分のもつ語彙が多ければ多いほど、自分の伝えたいことになるべく近い形で表現をするための"手札"も多くなる。一見すると、語彙力と表現の厳密性に比例関係があるように思えてくる。

 

しかしこれはすべての場合に当てはまらない。

 

なぜなら、厳密な言葉の伝達は自らの発話の厳密性だけでなく、相手の解釈の厳密性も不可欠だからである。

 

例えば、漢検準一級の問題を用いると、こんな表現。

 

「西の空が暮れ泥んでいる」

 

「暮れ泥む」という複合動詞は、空が暮れるでもなく、明けているでもない、極めて微妙な空の様子を表す語彙である。ただ、たしかに「暮れ泥む」という語彙が伝えたい内容に合致していたとしても、このように常用ではない語彙を用いてしまっては、相手に意味は伝わらない。

 

この齟齬を例えて言うならば、iPhone(発信者)からAndroid(受信者)へのテキストチャットを挙げよう。

 

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iPhoneは使用できる文字の数はAndroidよりも豊富だ。したがって、iPhoneでは多様な顔文字のメッセージを作れる。ところが、iPhoneで作成された顔文字内の文字はAndroid端末には存在しないため、iPhoneのテキストをAndroidで読んだ場合、顔文字は文字化けした意味をなさない記号の羅列になってしまう。(画像の場合だと、特に一番下のもの)

概ねこれと同じことが、会話でも起きてしまう。

 

したがって、語彙力に相関する表現力の増加はある閾値を超えると、受信者側の都合により逓減しはじめるのである。

 

これもすべて表現力というものが、メッセージの発信者側の語彙選択と、受信者側の解釈の両輪で成り立っているからである。

 

それじゃあやはり、語彙は披露する場がなければ意味がないというのも、なんだかもっともな意見に思える。

語彙力を貪欲に増やしていくメリットがないじゃん。そう思うかもしれない。しかし、ここからが本題だ。

 

今まで話してきたことは、語彙力がもつ「表現」(自分が発信して、相手が正確に受信すること)に対する作用についてだった。つまり、他者の存在が不可欠なシチュエーションという、限定された用途においての話だった。

 

しかし、語彙力の作用が自己完結しているようなシチュエーションならば、どうだろうか。すなわち、相手を必要としない語彙力の使い道においては、語彙力増強はいかんなく効果を発揮するのではなかろうか。

 

実はそのような場面が存在する。相手を必要としない語彙力の使い道、それは「思考」である。これを端的に指摘してみせたのが、ある哲学者のこの言葉である。

 

「語りえぬものには、沈黙しなければならない」

 

ウィトゲンシュタインという哲学者が残した言葉だ。

「沈黙しなければならない」とかいう仰々しい文句につられて、「言葉にできないなら黙れ」みたいなニュアンスを感じ取ってしまいそうだが、これはウィトゲンシュタイン特有の文体ゆえの誤解である(正直、翻訳しているとか文脈から切り離されているとかそいう要因も十分ある)。

 

「語りえぬもの」、これは、要するに「言語化されてないもの」というわけである。問題は「沈黙しなければならない」という文句。「沈黙しなければならない」のはむしろ「(意見を)沈黙せざるを得ない」のほうが近い。マサムネ訳では「言葉になってないものについてはなんも考えられない」ということになる。

 

要するに、「言語なしに思考はできない」ということである。なるほど言語を省いて概念を理解しようとしても、そもそも概念化になんらかの言語が伴ってしまう。

 

絵や音楽などに思考は伴わないのか、という指摘もあるだろう。確かに、絵や音楽は直感的に任意の概念を表現したものとして考えることもある。しかし、例えば、言語による思考のように、別々の絵と絵を用いてそれらの絵の概念を綜合した新しい概念を生み出せるかというと、やはりそれはできない。

 

気になる人だけに込み入った話をすると、この主張のざっくりした前提として、「思考は命題の形式で行われる→命題は任意の言語から成る」という考えがある。

 

話を戻すと、思考というフィールドにおいては、語彙力はいかんなくその力を発揮できるのではなかろうか。誰かに合わせる必要もなく、打てば響くように語彙力が抵抗なく作用するのではないか。

 

ウィトゲンシュタインよろしく言語化できる対象についてしか思考できないのであれば、言語化できる対象が多くて困ることはないだろう。

そして、その「言語化」を担うのは紛れもなく「語彙」である。つまり、語彙力と思考力は相関しているのである。

 

知覚した現象を、ひとたび自分の中で言語化できさえすれば、それを自らの思考に取り入れることができる。

しかし、その言語化の過程で語彙力がボトルネックとなってしまうと、たちまち自らの思考の対象が減ってしまう。

それを避けるために、語彙力の増強はしておいて損はないのかな、と思ったから受けました、漢検準一級。

 

 

 

って説明すればかっこいいかなって思ったけど、衒学に終わってしまった。

衒学、準一級用漢字です。